わたしの日記帳 パート22

平成17年1月16日(日)

(天 気)雨

イラクにおける日本の自衛隊について

少し長い文章ですが、大変重要な内容ですので、読みにくいかもしれませんが、ぜひ内容を吟味してお読み下さい。

■1.前代未聞の感謝デモ■

イラクでは噂が伝わるのが速い。昨年12月14日の自衛隊の派遣期間が終わりに近づき、またロケット砲が打ち込

まれるという騒ぎが起こると、「自衛隊は帰るのか?」という懸念が瞬く間に広まった。すると140人の老若男女

からなるデモ隊が「日本の支援に感謝する」と自衛隊宿営地に詰めかけ、口々に「帰らないで」と懇願した。同時に

「自衛隊の滞在延長を願う署名運動」が展開され、2日間で1500人もの署名が集まった。[1]

実は感謝デモはこれで二度目だった。4月に2度、自衛隊宿営地そばに迫撃砲が撃ち込まれると、サマーワ市民によ

る百人規模のデモ行進が行われた。スローガンは「日本の宿営地を守ろう」というものだった。さらにいろいろな人

が宿営地に来て、「申し訳ない。あれは一部のはねっかえりで、イラク国民の意思ではない。どうか帰らないでくれ

」と陳情した。[2]

前代未聞のデモに、英米オランダ軍も驚いて、自衛隊に矢継ぎ早に問合せをしたほどだが、迫撃砲を撃ち込んだテロ

リスト達もこれでは逆効果だと思っただのろう。その後、派遣期間終了の近づく11月まで動きはなかった。

もっともこうした事実は、日本のマスコミはほとんど伝えなかった。逆にパレスチナ自治政府のアラファット前議長

の死去を受けてサマーワで行われた「パレスチナ支援デモ」では、20本ほどの横断幕のたった一つに「自衛隊は撤

退すべきだ」と書かれていただけで「反日デモ」などと報じた新聞があった。偏向報道もここまで来れば、確信犯と

いう他はない。

■2.「カーネル・サトウはサマーワの人々の心に到達した」■

自衛隊によるイラク支援は、活動当初からイラクの人々の心を捉えるよう綿密に準備されたものだった。先遣隊隊長

として乗り込んだ佐藤正久・一等陸佐は今回が3度目のPKO参加。最初のカンボジアの後に、ゴラン高原で一次隊

長を務めており、中東人とのつきあいを体験的に心得ていた。風貌も中東人風で、豊かな口ひげがよく似合う。現地

では「絶対に破らない約束をする」時、互いのヒゲを触る決まりがあるので、相手の家に招待された時などは、ヒゲ

が重要な役割を果たした。さらにイラク人の衣装を貰って、食事に招待された時にはこれを着ていった。現地の人々

と車座になって、右手で食べる。こうした姿勢をイラク人は「我々の伝統的文化を尊重してくれた」と非常に喜んだ。

ある部族長は「カーネル(大佐)サトウはサマーワの人々の心に到達した」と語った。帰国直前には「イラクから帰

ってくれるな。嫁と家は準備するから」とまで言われた。アラブでは妻は4名まで持てるので、あと3人は大丈夫だ

というのである。

■3.「カーネル・サトウを悲しませたくない」■

先遣隊の仕事の一つに宿営地の準備があったが、この土地の借用交渉がなかなかまとまらなかった。地主が法外な値段

をふっかけてきたからだ。日本のマスコミはこれをさも現地が自衛隊を歓迎していない証拠であるかのように報道した

が、佐藤一佐の思惑はもっと深い所にあった。私には合意を急ぐという気持ちは毛頭なかった。交渉でぎりぎりまで粘

って、我々の想定額にできるだけ近づけたいと思っていました。理由があったからです。「我々は占領軍ではない」こ

とをイラクの人たちにアピールするため、しっかりと契約を交わして、お金を払って宿営地をつくることを見せたかっ

た。それと、我々と同様に土地交渉を行っているオランダ軍の交渉に影響を与えないようにしたかった。悪い前例を残

さないような妥当な金額で決めたかったのです。ですから、はなから安易に折り合う気はなくて、時間をかけていこう

と腹を決めておりました。[3,p155]

ゴラン高原での経験からも、中東での交渉事は、じっくり時間をかけて、まず人間関係を作る所から始めなければなら

ない、と心得ていた。そのために約1ヶ月半の間に約10回も会って、時にはお茶を飲みながら、日本の文化を紹介し

たりまでした。こうしたプロセスを経て、最後には相手は「カーネル・サトウを悲しませたくない」と言って、きわめ

て妥当な金額で折れてくれた。

■4.「我々はあなた方の友人として、サマーワに来た」■

番匠幸一郎一等陸佐が率いる復興支援の本隊・第一次イラク復興支援群がサマーワに近づくと、道行く人々が遠くの方

からも大きく手を振った。最初は外国人が珍しいのかなと勝手に思っていたのですが、そうではなくて、彼らは日本の

自衛隊だとわかって手を振っていたのでした。子供たちは「ヤーバニー(日本人)」と声を上げながら走り寄ってきて

歓迎してくれました。 [3,p53]

装甲車両には色鮮やかな日の丸が描かれている。隊服の右胸、左袖、背襟下にも遠目にもよく目に見えるほどの日の丸

をつけていた。多国籍軍側からは「これでは『撃ってくれ』と言わんばかり。お前らはどうかしている」と何度も忠告

されたが、イラク人に「自分たちは日本の自衛隊」であることをことさらアピールしたかったからだ。

サマーワにつくと、番匠一佐は現地の人々に繰り返しこう語って理解を求めた。我々はあなた方の友人として、日本か

らサマーワに来た。我々日本も、60年前の先の大戦で敗れ、国土は焦土と化した。すべてが無に帰し、食料にも困る

日々が続いた。そんな廃墟のなかから、私たちの祖父母、父母の世代は立ち上がり、大変な努力をして、日本を復興さ

せた。そして、その結果、いまや経済力世界第二位という日本を築き上げることができた。メソポタミア文明という人

類にとって偉大な歴史を有するあなたたちイラク人は偉大な国民だ。あなた方に同じことができないはずはない。我々

は友人として、あなた方が立ち上がるお手伝いに来たのだ。[3,p58]

イラク人にとっては、日本は同じアジアの国である。さらに自分たちと同じようにアメリカにやられた国だという意識

があったようだ。その日本から「友人として助けに来た」という番匠一佐の言葉はイラク人の心に響いたに違いない。

■5.意気に感じたイラク人作業者たち■

宿営地には建設中の段階から、外国の軍人たちが表敬や見学のために訪ねてきたが、彼らが一様に驚くのは、イラク人

作業者たちが、夕方になってもまだ働いていることだった。外国の宿営地で雇っている作業者たちは3時、4時になる

と仕事が途中でも帰ってしまう。夏場には60度にも達し、風が吹くと汗はすぐに乾いて塩になってしまうほど、それ

も無理はない。外国の場合は、イラク人作業者に作業を命ずると、彼らだけを働かせるのだが、日本では幹部自衛官で

も、彼らと一緒になって、ともに汗を流した。宿営地の鉄条網整備の際には、日本人2、3人とイラク人7、8人がチ

ームを作り、有刺鉄線に服はボロボロ、体中、血だらけ汗まみれになって作業を続けた。昼食は分け合い、休み時間に

は会話本を指差しながら、仕事の段取りについて話し合う。いったん意気に感ずると、とことん尽くすのがアラブの流

儀だ。終業時間の5時を過ぎても、まだ隊員と一緒にブルドーザーに乗って働いているイラク人の作業者もいた。

■6.「自衛隊の水」で「子供の病気が治った」■

600名の隊員による支援活動が始まった。6時に起床し、洗面・朝食後、8時からの朝礼ではイラク国旗と日の丸の

掲揚、ラッパによる両国国歌の演奏。それから5時の終礼まで作業が続く。

復興支援業務の柱は、給水、医療、公共施設復旧である。宿営地の北側にあるユーフラテス川の支流の運河から水を引

いて、4台の浄水車で一日80トンから100トンの飲料水を作る。これを日本のODAで寄贈した日の丸つきの12

両の給水車で、自衛官から運転の方法を教わったイラク人ドライバーが配る。これはイラクで殉職した故・奥克彦大使

のアイデアだった。 [a]

ユーフラテス川の水は水質が悪く、飲めば100%アメーバ赤痢にかかってしまうのでイラクの人々は決して飲まない

そうだ。戦闘で上水道が破壊されると、イラクの人々は浅い井戸の非衛生的な水を飲まなければならず、まさに死活問

題である[4]。

「自衛隊の水」で「子供の病気が治った」など、感謝の声が多く寄せられた。

医療支援は、直接現地人を治療するのではなく、ODAによる医療器材や薬を供与し、自衛隊医官がイラク人医師への

最新医療技術の教育を行った。特に「いくら立派な機材を入れても、病院が汚れているのが一番問題なのだ」と説明す

ることで、掃除が行き届くようになり、「自衛隊が行くようになってから病院が綺麗になった」と評価された。

金にあかせた派手な援助ではなく、人々の生活に不可欠な基盤を地道に復興する、というのが、現地の人々に最も喜ば

れる支援のあり方だろう。

■7.「そこは日本にやってもらいたい」■

また、あくまでイラク人が自分で復興するのを支援するのだ、という方針は、学校や公共施設の復旧活動でも貫かれた。

一つには、なるべく現地の業者を使うことで、現地の雇用を創出して、深刻な失業率に歯止めをかけるためだ。

この点は他国の部隊や支援機関も同様だったが、彼らが業者にほとんど「丸投げ」するのが多かったのに対し、自衛隊

はプロセスを大事にした。佐藤一佐はこう語る。例えば、学校の修復であれば、学校長、部族長、評議会などが横並び

でいろんな意見を言いますが、それを統轄する人がいない。そこで、我々は一つ一つのニーズを拾い上げながら、ひざ

を付き合わして話し合いを続け、それぞれのイニシアティブを尊重しながら、青写真にまとめ、関係各位に合意をとっ

てから、詳細設計に入り、見積もりを作って、業者を募集し、選ぶという手順を踏みました。・・・

初めから丸投げしたほうが楽なのですが、我々は6月に予定されていた主権移譲後のあり方というものも視野に入れて

いましたので、このような過程を丁寧にすることも大切な復興支援の一つだと考えたのです。

実際、イラクの人たちの信頼は厚くなり、「そこは日本にやってもらいたい」という要望がどんどん増えていきました。

そして、主権移譲後は、他の国の部隊やNGOも日本のやり方に近づいています。[2]

こうした活動で、小学生からも「学校修復のおかげで、きれいな教室で勉強できる」と言ってもらえると、疲れも吹き

飛んだという。[1]

■8.ユーフラテス河の鯉のぼり■

5月5日のこどもの日にユーフラテス川に鯉のぼりをかけて泳がせ、戦禍のなかでたくましく生きるサマーワの子供た

ちに見せてやりたいのです。子供さんが成長されて、タンスのなかで眠っている鯉のぼりがあったらご提供いただけな

いでしょうか?

番匠一佐がイラクに来る前に駐屯地司令官をしていた北海道・名寄市の市民にこう呼びかけると、200本以上の鯉の

ぼりが集まった。

4月29日には宿営地そばに迫撃砲弾が撃ち込まれて、鯉のぼりプロジェクトの中止も検討されたが、この局面だから

こそで、敢えてこのプロジェクトを遂行しようと決定を下した。幅100メートルのユーフラテス川に多くの鯉のぼり

をかけ、同時に番匠一佐から次のようなメッセージが発せられた。

日本では宗教に一切関係なく、父親母親が成長を祈って、こどもの日に鯉のぼりを掲げます。下流から上流に向かって

流れに逆らい勢いよく上がっていく鯉は成長や健康の象徴です。子供はその国の将来そのものであり、イラクの子供が

明るい未来を築いてくれることを祈念します。 [3,p179]

サマーワ市民百人規模の「日本の自衛隊を守ろう」という前代未聞のデモ行進が行われたのは、この翌日のことであっ

た。

■9.「日本人の財産」■

番匠一佐がイラク支援を通じて感じたのは「日本人の財産」ということだそうだ。

日露戦争で頑張った日本人、戦後の廃墟から世界第二位の経済大国にまでつくり上げた父母、祖父母の努力。いまに至

ってもサマーワ最大のサマーワ総合病院は20年前の日本のODAによってできたものです。その当時の日本人がどれ

だけ立派だったか、という話をよく聞いたし、サマーワでは日本の車、電化製品の信頼性が異常なほど高い。今回ほど

自分が日本人あるいは自衛官であることを誇りに思ったことはありませんでした。[3,p76]

今回の活動も「まさに日本人がこれまでに積み上げてきたものに見守られていた」という。

「日本と日本人はイラクで非常に尊敬されている」(アラウィ・イラク暫定政府首相[5])という事実は、過去のODA

や経済活動で築いてきた「日本人の財産」である。今回の自衛隊の支援活動は、その財産目録に新たな一頁を加えたと

言える。

「自衛隊の水」を飲んで病気から治った子供たち、自衛隊の手で修復された学校に学ぶ子供たち、ユーフラテス川の鯉

のぼりに歓声をあげた子供たち、これらの子供たちが大人になった時、彼らは日本の心からの友人となるだろう。食料

やエネルギーの大半を輸入に頼るために、世界が平和でなければ生きていけない日本人にとって、こういう友人ほど大

切な財産はない。

(文責:伊勢雅臣)

・・・・・皆様如何お読みでしょうか。日本の多くのマスコミの報道では決して知る事のできない事実が述べられてい

るとお思いになりませんか。・・・・・

平成17年1月13日(木)

(天 気)晴れ

スマトラ沖大地震による津波被害の各国の援助

日本は国連の各機関に対して、即時無償援助2億5000万ドルを表明しました。それは貸付資金ではなく、本当に必要と

する資金を無償で提供するというものです。日本は世界でも有数の地震国であり、今回の未曾有の災害に対していち早く現

在必要な最大の支援を表明しました。これは痛みを知る日本の心からの支援です。それは資金のみならず、津波の被害を最

小限に食い止めるノウハウの提供や津波の被害のみならず、台風の被害に対するノウハウも提供しようという実に誠実な対

応です。それに対して中国は飛躍的に経済的な発展を遂げているにも拘わらず、2,000万ドルの支援しか表明していま

せん。それはそれで国内の事情もあると思ってもよいのですが、「日本は突出した支援を表明して目立とうとしている」と

いうようなコメントも示しているようです。このことからも解るように現在の中国は日本に対して不誠実で無礼な対応をし

ています。それは日本国内の自虐的な日本人の存在がそれを可能にしているからです。このことを指摘する有識者も徐々に

増えてきていることは事実だと認識しております。

平成17年1月12日(水)

(天 気)晴れ

年明けの寒さは厳しいですね

12月中はかなり例年より暖かい日が多かったようですが、年明けから寒さが厳しく堪えます。それでも北国の零下の気象

に比べればそれほどのものではないというところでしょう。気は持ちようで寒さも凌げると自分に言い聞かせています。

平成17年1月11日(火)

(天 気)晴れ

亡き母の言葉

私は時々、平成8年10月27日に80歳で亡くなった母の言葉を思い出します。「落ちぶれて袖に涙の掛かる時人の心の

奥ぞ知らるる」という短歌調の言葉です。人は何も問題が無い時には、それぞれのお付き合いを円滑にする事ができます。

しかし、本当に人生の窮地に立たされた時、今迄信頼していた人々に背を向かれ冷淡にされることもあります。しかし、そ

のような時に真剣に対峙してくれる人もいます。助けてくれる人がいます。それは何も金銭的なもののみをさすのではあり

ません(金銭面の場合自分や自分の家庭を壊すような援助はすべきではありません)。心からの真心を示すという意味です。

そしてその真心を受けた者は、決してそのことを忘れてはならないということです。そして、それは己の生ある限り大切な

ものとして受け止め、万一その方が窮地に立たされた時には今度は自分から真心を示すのです。それが、自分にとっても豊

かな人生を可能にできることだと母は語ってくれたのだと思っております。

平成17年1月10日(祭)

(天 気)晴れ

自転車で隅田川沿いを一廻り

日が暮れるのが遅くなりました。夕方5時になると真っ暗になっていた日暮れもまだ明るさが残るようになってきました。

今日の隅田川は目立ったゴミもなく気持ち良く川面を鑑賞することができました。小さな鴨がゆらゆらと水面に漂っていま

した。ジョギングやウオーキングをする老若男女も多く、とても穏やかな川沿いのサイクリングを楽しむ事ができました。

平成17年1月9日(土)

(天 気)晴れ

中国の歴史教育における言われなき日本攻撃

中国の歴史教育における日本敵視の姿勢に対しては日本の断固とした対応が必要だと思います。日本の官僚の多くも自虐的

な歴史教育を受けていることもあり、付け入る隙を与えています。例えば南京大虐殺館なるものを建て広く自国民ばかりで

なく、外国人にも認識させようとしていることは看過できない問題です。アメリカの外務省もこの中国の日本敵視教育は今

後、大きな世界的問題を引き起こすと指摘しています。中国で暮らしたある人物は、「私は中国より、日本の方が良い」と

言ったと聞いています。その理由が、中国では物事を自由に考え話すとすぐに警察に連れて行かれてしまうからということ

です。現在の日本にも社会的に堕落した面はありますが、根本的には政府に日常も監視されることは苦痛でしかないのでし

ょう。経済的には自由主義の良い所を享受しているのに結果的には国民、特に貧農達を搾取し、監視する社会が住みよいは

ずはありません。

平成17年1月7日(金)

(天 気)晴れ

ソフトバンクの猛威

福岡ソフトバンクホークスの選手補強の猛威はとどまるところを知らずという勢いです。現役大リーガーで、通算214本

塁打を記録した選手を、他のメジャー球団より破格の条件で獲得することが確実のようです。我がロッテオリオンズの現状

と比較すると益々差がついて行くような気がしてきます。しかし、金持ち球団のジァイアンツが2年もリーグ優勝を逃して

いることを考えると悲観ばかりしていることはありません。そして、球団自体も大胆に変革してもっと魅力ある存在になる

ことが必要で、根本的な問題である赤字体質を脱却することが急務だと思います。

平成17年1月6日(木)

(天 気)晴れ後小雨

仲間の母上の葬儀

今日はボーイスカウトの仲間の母上の通夜で出かけました。92歳になる方ですが、亡くなる当日まで病弱ではありました

が、家で通常の生活をなされていたそうです。つい1〜2年まえまで家でタバコ販売の仕事も続けておられる程でしたので

病院でなく、愛する家で最期を迎えることができました。まずは良い往生といえるでしょう。ご冥福をお祈り致しました。

平成17年1月5日(水)

(天 気)晴れ

お年始回り

今日は新年のお年始に回りました。殆どのお客様は本日からの営業ですが、お仕事は本格的にはなさっていないようでした。

皆様とても歓待してくださいました。大変嬉しく思いました。本年もどうぞ宜しくお願いいたします。

平成17年1月4日(火)

(天 気)晴れ

二人の悪友に呼び出されました

今日は新年の墓参りや来客、その他の用が重なっておりましたが、私の二人の親友でもあり悪友でもある友人から呼び出しが

ありました。何と昨日行ったあの角の格安の寿司屋さんで待っているとのことでした。用事を何とか済ませてもういないかな

と思いつつ店を覗くと二人はまだおりました。閉店にはまだ時間がありましたが、歓待してくれました。店の常連の中国人の

若い女性と話し相手になっておりました。二人がとても彼女をほめますので、話を聞いていましたが本当に感心する女性でし

た。上海出身の彼女は来日して3年とのことですが、日本語は読み書き殆どマスターしているようです。日本人の親戚がいる

所為もあると思いますが、日本の文化にも見識が深いようです。英語もマスターしているとのこと、私も大いに触発されまし

た。このような人物が日本と中国の橋渡しの役割を担っているのかと思いました。私自身も反省と良い勉強になりました。

平成17年1月3日(月)

(天 気)晴れ

この「私の日記帳」について

皆様、明けましておめでとうございます。昨年中はこの「私の日記帳」にお付き合いいただき誠にありがとうございました。

今年も宜しくお付き合い下さい。それにしてもこの「私の日記帳」は話の内容が硬すぎるように思い、反省しました。何気ない

日常を短くても話してゆきたいと思うようになりました。どうぞ宜しくお願いいたします。

本日夕方、とても安くて美味しい寿司屋さんの特売店(本店は近くにありますが、角の小さなお店)に行きました。殆ど話しも

したことのない若い経営者の男性と話すことができました。とても有意義で良いお話しを聞かせてもらいました。

ちなみに、お勘定は1,200円でした。

平成16年12月25日(土)

(天 気)晴れ

日本人の自信喪失の原因について

日本占領直後から、GHQは日本人に「戦争犯罪」を知らしめる大キャンペーンを行いました。それが、「ウォー・ギルト・

インフォメーション・プログラム」(戦争犯罪周知宣伝計画 註1)です。この計画は、勝者からの一方的な情報により、日

本人に戦争の罪悪感を植えつけ、二度とアメリカに歯向かうことのないように弱体化させる心理作戦でした。作戦は、彼らに

とっては見事に成功しました。日本人は、自分たちに与えられている情報が、誇張や捏造されたものとは知らずに、深い自責

の念に駆られるようになったからです。・・・細川一彦氏

日本は終戦から7年間はアメリカに占領され、独立国ではありませんでした。今回のイラクにおいてさえ、後3ヶ月程でイラ

ク国民自身による選挙が行われることを考えると如何に日本を贖罪意識におとしめるために苦慮したかが判ります。このため

日本人は戦時中の戦闘行為に対していわれの無い非難を浴びることを罪の意識として受け止めるようになっているのです。

戦争とは双方が敵味方になって戦うことであり、平和時の常識でその当時の行為を判断することはできません。欧米の植民地

政策はし烈をきわめ、搾取と略奪に明け暮れたことは明白ですが、彼らがそれに対して贖罪意識をもって謝罪することはあり

ません。北朝鮮が拉致問題ででたらめな回答を指摘されて、苦し紛れに日本の戦時中の自由徴用を拉致だとして白を切る態度

は日本の有力なマスコミがそのような論調を認めているからです。最近の堕落した日本人は、日本人としての誇りを失ったこ

とに多くの原因があると思います。

平成16年12月25日(土)

(天 気)晴れ

イラクにおける日本の貢献はこのモルディブにおける貢献と同質

【マレ(モルディブ)福本容子】「日本の支援がなかったら、マレはなくなっていただろう」――。モルディブの人口の約3

分の1が住む首都マレでは、日本からの公的支援で建設された防波壁が、島を津波の大惨事から守ってくれたとの見方が広が

っている。海抜1メートル程度しかない約1200の島々から成る同国は地球温暖化の進行で国全体が沈みかねないとの不安

を抱え、常に海面上昇への恐怖と隣り合わせで生きてきたが、88年以降、進めてきた首都の護岸工事が壊滅的な被害を回避

するのに貢献したと、島民は口々に語った。災害対策本部の置かれたマレ市のイスカンダール小学校校庭でボランティア活動

を指揮する元オリンピックマラソン選手のフセイン・ハリームさん(35)。彼になぜマレは3分の2が冠水しながらも死者

が出なかったのだろうと尋ねた。するとすぐに答えが返ってきた。「10年以上かけて作った防波壁が大いに助けになった。

日本の援助のおかげだと聞いている」その防波壁を見たくて市南部の海岸まで案内してもらったタクシー運転手のアハメド・

シャフィールさん(30)も「日本が作ってくれたあの壁がなかったら今ごろマレはもうない」と語り、「助けてくれた日本

人からこんな時に金を受け取るわけにはいかない」と決して料金を言ってくれなかった。大統領府によると、日本はモルディ

ブ最大の援助供与国で13年をかけた防波壁工事の費用6600万ドルの主要部分を日本の援助が支えたという。南部の海岸

通りには、「日本とモルディブの友好のため日本政府が提供した支援で作られた」と消波ブロックに記した記念碑が海に向か

って建っていた。(毎日新聞) - 12月28日15時32分更新

・・・・・

イラクでは様々な勢力が自分達の正当性を示すために、人殺しを続発しています。アメリカの行き過ぎには非難される面もあ

りますが、このようなテロ集団には国を治めることはできません。その中で日本がイラクにおいて必死になって正当な活動を

進めることに対して、朝日新聞等を筆頭に実に偏向した報道を続けています。このような傾向は必ず右翼の台頭を許す結果に

なることを危惧しています。

表紙に戻る