わたしの日記帳 パート20

平成16年10月29日(金)

(天 気)晴れ

ボーイスカウトの育成会総会

本日は我が台東第1団の育成会総会が近くの人権プラザで行われました。仕事で役員の一員である私は30分前に出席する

予定が15分遅れてしまいました。他の役員の方々がすっかり用意してくれていました。総会は司会や議長のスムーズな運

営により滞りなく閉会となりました。スカウトの減少が一番の問題ですが、各隊の隊長さんも気合を入れて頑張ってくれて

いますので、何とか乗り越えることができると思います。お茶とサンドイッチの懇親会でしたが、大変有意義で楽しい集会

になりました。人とのつながりを大事にする育成会長や団委員長の真意は必ず実を結ぶと信じております。・・・・・

平成16年10月23〜24日(土〜日)

(天 気)晴れ

浅自協様のゴルフコンペ

浅自協様の第50回ゴルフコンペがありました。年に二回のコンペですので、通算25年になります。この記念すぺきコン

ペにゴルフが誠に下手な私を呼んでくださった会長始め幹事の方々に感謝しました。23名の参加ですので総勢6組の立派

なコンペです。私は3人の組に配属されましたが、あとの二名の方々は大変上手なゴルファーです。風月ゴルフクラブのコ

ースは距離もあり、殆どが打ち上げのコースでしたので、距離の出ない私は非常に苦戦しました。結果は23名中20位で

した。スコアは公表できるものではありませんでしたが、飛賞の賞品をいただきました。女房に良い土産ができましたので

それなりに満足しました。・・・・・・・

コンペの後は貸し切りの観光バスで1時間以上にかかりましたが、大洗のホテルに泊まりました。とても良いホテルで美味

しい料理をいただきました。この旅行で新しいお客様になっていただいた社長様がおりました。心から感謝いたしました。

平成16年10月21日(木)

(天 気)雨後晴れ

ヤンキースまさかの4連敗

3連勝の後の4連戦に1勝もできないとは予想できませんでした。松井選手は最高に活躍しましたが負けてしまいました。

ストーブリーグで、優秀な投手を大胆に放出しましたので大変心配していましたがこのような結果になってしまいました。

日本のジャイアンツも巨額を投じて選手補強をしましたが、的を外れた補強は強い戦力とはなりません。ヤクキースも今後

は真の補強をしてほしいと願っています。しかし、松井フアンとしては来年の更なる活躍を期待して楽しむこともできます

ので、それほど落胆しておりません。ますますの松井選手の活躍を祈ります。・・・・・

平成16年10月20日(水)

(天 気)雨

またまた台風列島上陸

今年の台風には私も悩まされています。仕事もやりにくいこともありますし、テニスは雨で中止になります。今年は誠に異

常な気象状況が続いています。夏の酷暑と10月になって大型台風の上陸は例年にないことです。・・・・・

しかし、頑張って生活して行こうと思っています。皆さんも負けずに乗り越えていって下さい。台風の後には晴天が待って

いることを考えて楽しく暮らしていきましょう!!

平成16年10月17日(日)

(天 気)晴天

久しぶりのボーリング大会

今日は隆青会のボーリング大会が浅草の楽天地ボーリングで行われました。私は集合が午前11時半と思っていましたので

大リーグのヤンキース対レッドソックスの野球の試合を見ておりました。一回目に松井がホームランを打ち、喜んでいまし

たところ、会長から大会が始まるという電話をいただきました。何と9時半集合、10時スタートということでした。私は

慌てて、タクシーに乗り間に合うことが出来ました。3ゲームで457点という得点でしたので、中の上くらいの成績でし

た。優勝者は680点以上で、600点以上が4〜5人いました。大変ハイレベルな大会でした。しかし、同じレーンの方

方と実に楽しい一時を過ごすことができました。今日も良い一日でした。ありがとうございますと感謝いたします。

平成16年10月16日(土)

(天 気)曇り

ボーイスカウト台東第一団の育成会定例会

育成会の定例会が会長宅で行われました。今月末の総会についての打合せとか12月にある餅つきバザー大会の話がありま

した。司会や議長等を選出したり、段取りを決めたりしました。何とか話もスムーズに進みました。しかし、一番の悩みは

スカウトの減少傾向に歯止めがかからないことです。皆で知恵を出し合ってこの事態を乗り越えたいと思っております。

平成16年10月12日(火)

(天 気)雨

パリーグのプレーオフは面白かった

プロ野球パリーグのプレーオフは結局、西武ライオンズがダイエーに先勝されたハンデを乗り越えて3勝2敗で勝ち、パリ

ーグの優勝チームとなりました。そしてシリーズではあと一歩のところで、西武に5ゲームの差をつけられなかったダイエ

ーは首位の特典を得ることなく、優勝を逃してしまいました。しかし、大変エキサイティングな試合を展開したことは我々

プロ野球のフアンとしては満足のいくものでした。特に、最終戦は両チームとも死力を尽くした戦いだったと思います。負

けたダイエーも決して落胆することはありません。私はロッテのフアンですが、日本ハムとの三位争いも応援に力が入りま

した。従来のマンネリ化した試合展開よりもずっと魅力のあるゲームを堪能することができました。新規に参入することを

表明している楽天やライブドアにも大きなエールを送りたいと思っています。

平成16年10月10日(日)

(天 気)曇り一時小雨

楽しかったミラクルパターボール大会

第2回神霊教のミラクルパターボール大会が青梅線の小作にあります聖地万寿山で盛大に行われました。10人一組で10

組が集いました。グランドに大きな三重円を描き、その中心にはゴルフのホール状の穴を作ってあります。ゴルフのパター

を使って硬式テニスボールを打つという競技です。男子と女性・子供達と打ち出すラインを分けてプレーするように大会の

スタッフが設定してくれました。パターなど一度ももったことのない方々が、大変楽しくプレーすることができたのではな

いかと思いました。我々のチームはまず緒戦で勝たせていただき、2回戦は形勢不利だと思っておりましたが、41対42

の1点差で負けてしまいました。私が二度のチャンスに1点しか取れなかったことが大きく影響したのかもしれました。

しかし、大会実行委員会は敗者復活戦も用意してくれていました。この1回戦は幸いにも勝たせていただきました。この戦

いの決勝戦で98対58で負けました。・・・・・ホールインワンは50点、一番内側の円は10点、二番目の円は5点、

一番外側の円は1点というルールです・・・・・このホールインワンを相手の女性にゲットされてしまいましたので、58

点を獲得したことは、健闘に値すると思いました。若い人から熟年者までが一緒になって本当に楽しい時を過ごさせいただ

きました。みんなが、心一つになって充実した日曜日になったと感謝いたしました。

平成16年10月3日(日)

(天 気)雨

今一ゴルフのコンペ

年に3回行われる我が今一ゴルフクラブのコンペが本日、群馬県の板倉ゴルフクラブで開催されました。車で現地に向かう

につれて雨が激しくなり、コンペのスタートの時にはあまりにも激しい雨の為に、中止するかどうかということで幹事さん

は決断を迫られました。グリーンの状態等を見て、予定通り開催することに決定しました。しかし、この激しい雨もプレー

を進めるにつれて小雨状態になり、午後にプレーを終わる頃に雨が強く降り出したことを除けばプレーに何ら支障はありま

せんでした。・・・・・成績は誠に不満足なものでしたが、一日中お付き合いさせていただいた仲間に最大の感謝

の気持ちを捧げたいと思う一日でした。

平成16年10月1日(金)

(天 気)晴れ

ポーイスカウト父母一泊キャンプの打合せ

我が台東第1団の父母一泊キャンプに関する打合せが本日団委員長のお宅で行なわれました。実行委員長を中心に話しは進

行しました。みんなボーイスカウト活動が大好きな人たちですので、楽しく和気藹々の内に2時間位の時間でしたが、各部

門の計画が決定されてゆきました。キャンプといっても、ごく近い場所を確保しておりますので、途中で帰ることも途中か

ら参加することも可能です。童心に帰って、遊びたいという気持ちが実行委員の皆さんの一致した願いだと思います。この

ような企画はどんなにお金を掛けた催しより多くの参加者に印象的な出来事となると確信しています。当日は他の用があり

少ししか参加できませんが、大変楽しみにしております。

平成16年9月28日(火)

(天 気)晴れ

義父の7回忌と由布院の旅

22日の夜、羽田から全日空で福岡空港に到着しました。福岡空港に到着した日の夕食は博多の有名な料理屋さんで豪華な

食事を妹夫婦が用意してくれました。そして翌日は由布院に招待してくれました。由布院は女性客が約8割を占めるそうで

す。京都や軽井沢のような趣も備え、女性が好むような洒落た土産物店が多くありました。宿の造りも中々凝っていて、広

い露天風呂に入り、くつろぎました。角の離れのような大きな部屋で、三人姉妹夫婦6人が九州の美味い刺し身をはじめ、

海の幸を堪能させてもらいました。妻の妹の夫は口数が少なく一見恐持ての人物ですが、誠に心優しい男性です。又、義妹

は、病院で重度の障害の方々のお世話をしています。「下の世話もしますが、一度もきたないと思ったことはありません」

という彼女は、掛け値なしに素晴らしい女性だと思います。

24日には実家でもある熊本の義兄の家でお世話になりました。新築以上に手の込んだ改装をした立派な家で7回忌は行な

われました。その日のお清めのご馳走は最高に豪華なものでした。広い二部屋をつないで30畳もあるような部屋に20数

人分のご馳走が並びきれないほどでした。義兄のもてなしにとても感動しました。そして、皆なで腹の底から話し合い、そ

れが今後の為に大いに勉強になりました。又、兄夫婦は92歳になる母親の世話もしてくれています。それは毎日大変なも

のです。本当に有り難いと思っております。義兄は世の中の人々に対する思いやりもあり実に心の懐が深い男性です。又、

義姉はもくもくと朝早くから夜遅くまで我々のために動いてくれました。・・・・・そして、妻の姉はいつでもみんなのこ

とを暖かく見守ってくれる尊い女性です、又、連れ合いの義兄は一言で言えば天才肌の男性です。年齢を重ねても常に挑戦

する魂には共感します。・・・・・私は仕事のこともあり、最初は躊躇しておりましたが、亡き義父とは心底から気が合っ

ていたこともあり、思い切って九州に出てきて本当に良かったと思いました。

平成16年9月22日(水)

(天 気)晴れ

新しい歴史教科書をつくる会、高森明勅氏の講演

9月19日に澁谷道玄坂にあるフォーラム8で高森氏の講演はおこなわれました。「日本再生への道しるべ〜歴史教育から

日本は立ち直る〜」が基調講演でのタイトルでした。午後1時より2時間以上に亘り熱演されました。

【子供は親が育てるという基本が崩れている】その原因について、@最近の幼児虐待事件に見られるように育てる責任のあ

る親が子供を虐待しているA子供をないがしろにする社会は老人もないがしろにする。9月15日の敬老の日を休日の都合

で簡単に9月20日にしてしまうような精神、このような社会は健全でない。B祝日に日本の国旗を掲揚することもしない

又は、掲揚することに躊躇う、このような現象は教育に原因があることは明白である。

昭和23年まで、紀元節として2月11日は祝日であったが、昭和24年から41年の間は全くの平日になってしまった。

4月29日の天長節(天皇の長寿を願う国民の心の祝日)も大多数の日本国民の願いは占領軍の為に拒否された。もともと、

占領軍の目的は日本を二度と米国の脅威とならないことを確実にするものであり、後々証拠が残らないように口頭で指示し

た。・・・・・・・・・・教科書に関しても同様の観点から許可したことは明らかである。検閲は周到な準備をもって行な

われた。即ち、一度全部作らせる、それに対してダメを出す。これを2〜3回繰り返されると、最初から占領軍の気に入っ

たようなものを作成することになる。その上、自信を失ったマスコミはその流れに沿った記述を述べることになる。それが

占領軍の真の目的であった。・・・・・・・・・・教科書の作成に関しては、中曽根首相の時に中国の首脳を喜ばせる為に

近隣諸国条項を取り決め、学問上根拠はないが中国、韓国の言うままになり、チェックしないようになった。

国旗は独立国には必ず必要なものだが、それさえも否定するようなことを言われている。そして、それに迎合するようなマ

スコミの存在がある為、益々この風潮は助長されていった。日本の子供は自国の歴史を学ぶ度に暗い思いを抱き、愛国心を

失うことになる。「新しい歴史をつくる会」の教科書の採択について、高森氏宅は放火され、教育委員へはカミソリ入りの

嫌がらせの手紙も届き、父母兄弟に対する脅迫も行われた。その元凶ともいえる新聞記事は、朝日新聞がつくる会の教科書

が採択されそうだと、一面に大きく報じたことにより韓国、中国が一斉に抗議したことから始まった。このようなマスコミ

は事実を巧妙に隠蔽し、国民を欺くことをやめようとしない。4年前の混乱は、今回避けることができるのか。東京都は、

都立白鳳中学、高校につくる会の教科書を採択することを決めたことは大きな影響がある。今回は、脅迫等の行為があれば

警察も迅速に動くことを表明しているようなので、着着と良い方向に進んでいくと思われる。教科書会社もこのような教科

書が良いのは理解しているが、実際に売れないのでは立ち行かないと言うところもあるようです。又、中国、韓国の留学生

も氏が100年来の友人になる為に、言いずらいこともいうのだと主張するとかなり良い印象を持つようになるようです。

最も悪い対応は、最初から相手の機嫌をとることのみ考え、自国を蔑む態度であると強調されました。大変清々しい想いで

帰途につきました・・・・・・・・・・。

平成16年9月19日(日)

(天 気)晴れ

日本のプロ野球はどうなるのでしょうか?

私は小学生の頃からの50年以上のロッテフアンです。しかし、東京球場で優勝した時に外野席のスタンドから弟と共にグ

ランドに飛び降りたような熱狂的なフアンではなくなっているかもしれません。・・・・・本日テレビでアメリカのプロ野

球の現状を報告していた番組がありました。メジャー、AAA、AA、Aの各球団が独立採算制を採っており、その全てが

健全経営をしているようです。このような良きお手本があるにもかかわらず、一向に体質を変えようとしないオーナー達の

資質が大きく問われていると考えるのが妥当ではないかと思っております。・・・・・

平成16年9月12日(日)

(天 気)晴れ

日本の統治時代

欧米やソ連、中国の植民地政策による侵略、略奪、虐殺には目をつぶる韓国、北朝鮮等のいわれない日本非難はこのような

事実には正面から向き合おうとしていません。・・・・・・・・・・

■1.助けてくれた日本人の将校さん■

昭和20年の春、台湾南部を走る満員の汽車のステップに立ち、振り落とされまいと必死に鉄棒に掴まっている12,3

歳の少女がいた。名は楊素秋(日本名:弘山貴美子)さん。台南第一高等女学校(4年生の旧制中学)を受験するための参

考書などを詰めたリュックを背負い、3日分の米と野菜を入れた布袋2つが両腕に痛いほど食い込んでくる。隣に立ってい

た20歳ぐらいの日本人の将校さんが心配そうに「大丈夫ですか」と聞くが、もう返事をする気力も残っていなかった。将

校さんが「その荷物を捨てなさい。早く捨てなさい」と言った。ちょうど汽車は鉄橋にさしかかった所だった。鉄棒から片

方の手を離して荷物を捨てた時、ゴーと鉄橋に渦巻く列車の轟音にハッとした楊さんは、左足をステップから外してしまっ

た。「助けて」と叫ぼうとしたが、目の前が真っ暗になって、意識を失ってしまった。遠くで聞こえていた大勢のざわめき

が、段々と近くなってきた。誰かが頬を叩いている。「気の毒にね。いたいけな子供が。顔が真っ青だよ。」「いやぁ、そ

の軍人さんがいなかったら、この子は川の中だったな。」気がついたら、楊さんは知らないおばさんの膝の上に抱かれてい

た。おばさんはニコニコしながら「ああ、よかっを吹き返さなかったら、どうしようかと心配していたのよ」と、楊さんの

おかっぱ頭を撫でた。台南駅につくと、おばさんは楊さんを抱いて窓から外に出してくれた。窓の外には、あの将校さんが

待ち構えていて、楊さんを抱き降ろした。

■2.他の人に尽くす力も与えてくれた■

 汽車のステップの上に立ち、自分の荷物を抱えて立っているだけでも大変なのに、その将校さんは気を失って転落しかけ

た楊さんをとっさに掴み、引っ張り上げてくれたのだった。下手をすれば自分も一緒に落ちてしまうかもしれないのに。

「あのう、、、お名前を教えていただけますか?」と楊さんが聞くと、将校さんはプッと吹き出し、「ハハハ、子供のく

せに。いいから気をつけて帰るんだよ」と将校さんは手を振って、汽車に乗り込んだ。爽やかな笑顔だった。汽車が遠くか

すんで見えなくなるまで、楊さんはそこに立ちすくんでいた。将校さんへの感謝を繰り返し、武運長久を祈りながら。

 楊さんは、その後、名前だけでも聞いておけばよかった、と50年以上も悔やむことになる。生きている間にもう一度お

会いして、お礼を言いたい、、、そんな思いを抱きつつ、楊さんは戦後、成人してから小児麻痺の子供10人と健常者の子

供20人を預かって育てあげた。あの将校さんは自分の命を助けてくれただけでなく、他の人に尽くす力も与えてくれたの

だった。

■3.清潔で治安の良い街■

楊さんは昭和7(1932)年、台南市に生まれた。父は台北工業高校を首席で卒業し、台湾電力に勤めていた。多くの日本人

の部下を抱え、彼らから尊敬されていた。日本統治下に生まれた父親は完全な日本人になりきっており、楊さんが生まれて

からは家庭でも日本語で通した。ただ母親は日本語が片言しかできなかったので、楊さんは母親とは台湾語で話した。

 父親は銭湯が好きで、よく楊さんの手を引きながら、連れて行った。道すがら「お手々つないで」や「夕焼け小やけ」な

ど日本の歌を教えてくれた。日本時代の町の特徴は、とにかく清潔なことだった。朝早く起きて戸を開け、まず家の掃除。

その後、家の前の道を掃くのだが、隣の家がまだ起きてなかったら、そちらも掃いてあげる。そうすると、今度は隣の家が

翌朝はもっと早く起きて、こちらの分まで掃いてくれるのだった。道路脇の側溝を掃除するおじさん、散水車、除草の車な

ども朝早くやってくる。こういう作業員はみな政府に雇われていた。かつては「瘴癘(しょうれい、風土病)の地」と呼ば

れた台湾の衛生状態を改善するに日本政府は力を入れていたのである[a]。

 治安も良かった。今の台湾では窓に鉄格子をしているが、日本時代には鉄格子のない家で、戸締まりなどしなくとも安心

して眠ることができた。道ばたで物を拾っても、自分のものにすることもなかった。楊さんの家の前には派出所があり、日

本人のお巡りさんがいた。楊さんが時々落とし物を拾って届けると、「君、また拾ってきたのか」と褒めてくれた。

■4.日本人のお隣さんたち■

 楊さんの家の周囲には、日本人がたくさん住んでいた。お向かいの金子さん、裏には榊原さん、中学教師の広瀬先生、台

南の法院長を務めていた緒方さん。

 このあたりで電話があるのは楊さんの家だけだったので、ご近所あてに電話があると、楊さんは走って「電話ですよ」と

呼びに行った。呼ばれた日本人の家では、後でかならずお寿司などを持ってお礼にきた。また近所の日本人は、よくおはぎ

をたくさん作っては、親子揃って、楊さんの家に遊びに来た。楊さんの家でもお返しに台湾餅などを作った。それを届ける

のも楊さんの役目だった。台湾にも隣組の制度があり、日本人と台湾人の区別なく構成されていた。朝は、幾つかの隣組が

集まり、組長さんが交代で号令をかけてラジオ体操をする。

 天皇誕生日などの祝日には、町中の家が日の丸を揚げていた。台湾は即ち日本であり、自分たちは「台湾に住んでいる日

本人」としか思っていなかった。

■5.手を取って家まで帰ってくれた宮本先生■

楊さんが小学校に入って、最初の担任となったのは宮本先生という美人で優しい先生だった。楊さんは入学したその日か

ら、宮本先生が大好きになった。

 学校の裏手にある牧場に連れて行ってくれた事があった。先生が「皆さんは誰のおっぱいを飲んで大きくなりましたか」

と聞くと、お父さん子の楊さんは威勢良く手を挙げて「はい、私はお父さんのおっぱいで大きくなりました」と答えた。皆

に笑われたので、楊さんは泣き出してしまった。その日の放課後、宮本先生は楊さんの手をとって家まで一緒に連れてきて

くれ、父親に成り行きを話した。父親は嬉しそうに「ワッハッハ」と笑った。楊さんは、先生が一緒に帰ってくれるだけで

嬉しくて、泣いたことなどケロッと忘れてしまった。楊さんが落とし物を拾って届けると、宮本先生はまた楊さんの手を引

いて家まで来てくれて、父親に色々楊さんのことを褒めてくれた。父親は目尻を下げて聞いていた。宮本先生に限らず、当

時の先生方は生徒に自分の子供のように接し、また親とも緊密な信頼関係を築いていた。

■6.一緒に遊んでくれた小谷先生■

 3年生の時の担任は、小谷先生という男の先生で、楊さんの家の裏に住んでいた。楊さんは放課後、家に鞄を投げ出すと

小谷先生の家に遊びに行くのだった。先生はお話しをしてくれたり、習字を教えてくれたりした。

 台湾神社や開山神社のお祭りや夜市があると、先生は楊さんたちを連れて行ってくれた。浴衣に着替えた先生が迎えにく

ると、「わー」と先生の腕にぶる下がる。友達が「私も私も」と言うので、かわりばんこにぶる下がった。そして神社に行

っては、金魚すくいをしたり、お菓子を食べたりするのが、楽しくて仕方がなかった。

 授業では、楊さんは修身の時間が大好きだった。先生は偉人伝の本を読んでくれたり、紙芝居を見せてくれたりした。楠

木正成、二宮金次郎、宮本武蔵から、野口英世、東郷元帥、乃木大将、そしてエジソンやキューリー夫人、、、これらの人

物が艱難辛苦を乗り越えて、立派な人になった、という話に、楊さんは感動して、自分もそうなりたい、と思った。

 先生は「我が国には昔こういう偉い人がいた」という具合に教えてくれた。「日本には」とは言わなかった。だから楊さ

んも「我が国」と覚えてきた。

 毎朝の朝会では明治天皇の御製(御歌)などを朗詠するので、楊さんたちも自然に覚えた。その中にはこういう御歌があ

った。

新高(にいたか)の山のふもとの民草も茂りまさると聞くぞうれしき

新高とは台湾の代名詞である。明治天皇が日本人と同様に、台湾の民をご自分の民として思って、その繁栄を喜ばれている

事がよく分かった。

■7.自分の国の兵隊さんは、こんなに素晴らしい■

 台南には日本陸軍の第2歩兵連隊が駐留しており、年に何回かある記念日には閲兵式があった。その行進の歩調は、イチ

ニ、イチニとピッタリ揃っていて、沿道を埋め尽くした人々が、みな固唾を呑んで見とれていた。

 ある日演習があって、楊さんの家の前の木陰で休んでいた兵隊さんが立ち上がろうとした拍子に銃を落としてしまった。

上官がそれを見て、兵隊さんに鼻血が出るまでビンタを張った。ぶたれながらも兵隊さんは気を付けをしたまま、敬礼して

「ありがとうございました」と言うだけだった。その敬礼は崩れず、実に格好良かった。

その様子を息をこらして見ていた楊さんは、子供心にも軍の厳しさを感じ取った。兵隊さんでだらしのない人は一人も見た

ことがなかった。自分の国の兵隊さんは、こんなに素晴らしいのだと、楊さんたちは誇りにしていた。

■8.兵隊さんに肩車■

 昭和18年、楊さんが5年生の時には、台南市でも米軍の爆撃が激しくなり、一家で祖母のいる大社村という田舎に疎開

した。そこにも日本の若い兵隊さんたちがおり、日本語の話せる楊さん一家に、自然に遊びに来るようになった。

 楊さんの母親は兵隊さんたちを自分の子供のように可愛がって、おやつやご飯をたくさん作って、たらふく食べさせた。

満腹になって帰って行く兵隊さんたちには「明日もおいで」と声をかけた。

 兵隊さんたちは、お礼代わりに、水汲みを手伝ってくれたり、また支給品の三角巾や薬を使わずに持ってきてくれた。中

には自分が使っていた立派な万年筆を楊さんの父親にあげようとして断られると、「お願いですから使って下さい」と半ば

強引に置いていった兵隊さんもいた。

 兵隊さんたちはお互いの間では「おい、こら」などと言っているのに、楊さんに向かうと「喜美ちゃーん」とニコニコし

ていた。子供にはとても優しかったのだ。

 軍隊では時々映画を見せてくれるので、そういう時は「喜美ちゃーん、映画に行かんか」と誘ってくれる。楊さんは

「はーい」と言って元気に家を飛び出す。5年生で小さな楊さんは周りが皆兵隊さんばかりで画面が見えないので、いつも

肩車してもらうのだった。

■9.やってきた蒋介石の軍隊■

 楊さんの幸福な日々も、日本の敗戦とともに終わりを告げた。その最初のショックは、中国から蒋介石の軍が上陸した時

だった。シナ兵は裸足でボロボロの服を着て、天秤棒に鍋と七輪をぶら下げ、こうもり傘を担いでだらだらと歩いていた。

手で鼻をかんだり、痰を吐いている人もいて、まるで乞食の行列だった。こんな兵隊がやってきて、台湾はどうなるのか、

と心配になった。その心配は現実のものとなった。今まで戸締まりなどしなくても安心して寝ていたのに、家の自転車が盗

まれてしまった。

 終戦2年目の1947(昭和27)年2月28日には、蒋介石政府の横暴に怒った民衆が台湾全土で暴動を起こした。228事

件である。そのきっかけを作ったのは、中国人の密輸タバコ取締官が台湾人の女性の所持金を取りあげ、銃で殴っているの

を、日本海軍から戻ったばかりの若者が守ろうとしたことだった。

 この暴動を鎮圧するために、全土で3万人近くの台湾人が殺された。楊さんの父方の親戚の湯(とう)さんも、大衆の見

守る中で銃殺された。学生たちの命を守ろうと、学生連盟の名簿を役所から持ち出して燃やしたからである。湯さんの奥さ

んが夫の亡骸に毛布をかけてやろうとすると、中国兵はその手を払いのけて、銃剣で死体を突っついた。中学2年生の楊さ

んには、あまりにも衝撃的な光景だった。[b]

■10.あの平和で穏やかな時代に戻りたい■

蒋介石政権の戒厳令は40年間も続いた。そしてようやく「中華民国」から脱却して「台湾」への道を歩み始めたのは、

「私は二十二歳まで日本人だった」と語る前総統・李登輝の時代になってからである。[c]

 日本時代は、人民は政府を信頼していました。そして、それに応えるかのように政府も人民の生活を良くしてあげたいと

いう気持ちを表していました。また、兵隊さんも、先生方も、お巡りさんも良くしてくれ、町中至る所にいい雰囲気が溢れ

ていました。

 もしもタイムマシンで元に戻れるなら、もう一度日本時代に戻りたいです。あの平和で穏やかな時代に。

 台湾は別名をフォルモサともいう。16世紀にやってきたポルトガル人が、緑溢れるその美しさに感嘆して「フォルモサ

(麗しの島)」と呼んだのである。その麗しの島で、かつて台湾人と日本人が力を合わせて幸福な時代を築いた。それはま

た日本人の目指す理想の社会でもあったろう。

 日本時代とは私にとって、素晴らしい時代であり、私の人生の道標をこしらえてくれたと言っても過言ではありません。

私の向かうべき人生の指針を与えてくれました。私の心の中には、いつもとても綺麗な日の丸の旗が翩翻(へんぽん)とは

ためいています。[1,p272]

(文責:伊勢雅臣)

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