わたしの日記帳 パート19

平成16年9月12日(日)

(天 気)晴れ

日本の統治時代

欧米やソ連、中国の植民地政策による侵略、略奪、虐殺には目をつぶる韓国、北朝鮮等のいわれない日本非難はこのような

事実には正面から向き合おうとしていません。・・・・・・・・・・

■1.助けてくれた日本人の将校さん■

昭和20年の春、台湾南部を走る満員の汽車のステップに立ち、振り落とされまいと必死に鉄棒に掴まっている12、3

歳の少女がいた。名は楊素秋(日本名:弘山貴美子)さん。台南第一高等女学校(4年生の旧制中学)を受験するための参

考書などを詰めたリュックを背負い、3日分の米と野菜を入れた布袋2つが両腕に痛いほど食い込んでくる。隣に立ってい

た20歳ぐらいの日本人の将校さんが心配そうに「大丈夫ですか」と聞くが、もう返事をする気力も残っていなかった。

 将校さんが「その荷物を捨てなさい。早く捨てなさい」と言った。ちょうど汽車は鉄橋にさしかかった所だった。鉄棒か

ら片方の手を離して荷物を捨てた時、ゴーと鉄橋に渦巻く列車の轟音にハッとした楊さんは、左足をステップから外してし

まった。「助けて」と叫ぼうとしたが、目の前が真っ暗になって、意識を失ってしまった。

 遠くで聞こえていた大勢のざわめきが、段々と近くなってきた。誰かが頬を叩いている。「気の毒にね。いたいけな子供

が。顔が真っ青だよ。」「いやぁ、その軍人さんがいなかったら、この子は川の中だったな。」

 気がついたら、楊さんは知らないおばさんの膝の上に抱かれていた。おばさんはニコニコしながら「ああ、よかった。息

を吹き返さなかったら、どうしようかと心配していたのよ」と、楊さんのおかっぱ頭を撫でた。台南駅につくと、おばさん

は楊さんを抱いて窓から外に出してくれた。窓の外には、あの将校さんが待ち構えていて、楊さんを抱き降ろした。

■2.他の人に尽くす力も与えてくれた■

 汽車のステップの上に立ち、自分の荷物を抱えて立っているだけでも大変なのに、その将校さんは気を失って転落しかけ

た楊さんをとっさに掴み、引っ張り上げてくれたのだった。下手をすれば自分も一緒に落ちてしまうかもしれないのに。

「あのう、、、お名前を教えていただけますか?」と楊さんが聞くと、将校さんはプッと吹き出し、「ハハハ、子供のく

せに。いいから気をつけて帰るんだよ」と将校さんは手を振って、汽車に乗り込んだ。爽やかな笑顔だった。汽車が遠くか

すんで見えなくなるまで、楊さんはそこに立ちすくんでいた。将校さんへの感謝を繰り返し、武運長久を祈りながら。

 楊さんは、その後、名前だけでも聞いておけばよかった、と50年以上も悔やむことになる。生きている間にもう一度お

会いして、お礼を言いたい、、、そんな思いを抱きつつ、楊さんは戦後、成人してから小児麻痺の子供10人と健常者の子

供20人を預かって育てあげた。あの将校さんは自分の命を助けてくれただけでなく、他の人に尽くす力も与えてくれたの

だった。

■3.清潔で治安の良い街■

楊さんは昭和7(1932)年、台南市に生まれた。父は台北工業高校を首席で卒業し、台湾電力に勤めていた。多くの日本人

の部下を抱え、彼らから尊敬されていた。日本統治下に生まれた父親は完全な日本人になりきっており、楊さんが生まれて

からは家庭でも日本語で通した。ただ母親は日本語が片言しかできなかったので、楊さんは母親とは台湾語で話した。

 父親は銭湯が好きで、よく楊さんの手を引きながら、連れて行った。道すがら「お手々つないで」や「夕焼け小やけ」な

ど日本の歌を教えてくれた。日本時代の町の特徴は、とにかく清潔なことだった。朝早く起きて戸を開け、まず家の掃除。

その後、家の前の道を掃くのだが、隣の家がまだ起きてなかったら、そちらも掃いてあげる。そうすると、今度は隣の家が

翌朝はもっと早く起きて、こちらの分まで掃いてくれるのだった。道路脇の側溝を掃除するおじさん、散水車、除草の車な

ども朝早くやってくる。こういう作業員はみな政府に雇われていた。かつては「瘴癘(しょうれい、風土病)の地」と呼ば

れた台湾の衛生状態を改善するに日本政府は力を入れていたのである[a]。

 治安も良かった。今の台湾では窓に鉄格子をしているが、日本時代には鉄格子のない家で、戸締まりなどしなくとも安心

して眠ることができた。道ばたで物を拾っても、自分のものにすることもなかった。楊さんの家の前には派出所があり、日

本人のお巡りさんがいた。楊さんが時々落とし物を拾って届けると、「君、また拾ってきたのか」と褒めてくれた。

■4.日本人のお隣さんたち■

 楊さんの家の周囲には、日本人がたくさん住んでいた。お向かいの金子さん、裏には榊原さん、中学教師の広瀬先生、台

南の法院長を務めていた緒方さん。

 このあたりで電話があるのは楊さんの家だけだったので、ご近所あてに電話があると、楊さんは走って「電話ですよ」と

呼びに行った。呼ばれた日本人の家では、後でかならずお寿司などを持ってお礼にきた。また近所の日本人は、よくおはぎ

をたくさん作っては、親子揃って、楊さんの家に遊びに来た。楊さんの家でもお返しに台湾餅などを作った。それを届ける

のも楊さんの役目だった。台湾にも隣組の制度があり、日本人と台湾人の区別なく構成されていた。朝は、幾つかの隣組が

集まり、組長さんが交代で号令をかけてラジオ体操をする。

 天皇誕生日などの祝日には、町中の家が日の丸を揚げていた。台湾は即ち日本であり、自分たちは「台湾に住んでいる日

本人」としか思っていなかった。

■5.手を取って家まで帰ってくれた宮本先生■

楊さんが小学校に入って、最初の担任となったのは宮本先生という美人で優しい先生だった。楊さんは入学したその日か

ら、宮本先生が大好きになった。

 学校の裏手にある牧場に連れて行ってくれた事があった。先生が「皆さんは誰のおっぱいを飲んで大きくなりましたか」

と聞くと、お父さん子の楊さんは威勢良く手を挙げて「はい、私はお父さんのおっぱいで大きくなりました」と答えた。皆

に笑われたので、楊さんは泣き出してしまった。その日の放課後、宮本先生は楊さんの手をとって家まで一緒に連れてきて

くれ、父親に成り行きを話した。父親は嬉しそうに「ワッハッハ」と笑った。楊さんは、先生が一緒に帰ってくれるだけで

嬉しくて、泣いたことなどケロッと忘れてしまった。楊さんが落とし物を拾って届けると、宮本先生はまた楊さんの手を引

いて家まで来てくれて、父親に色々楊さんのことを褒めてくれた。父親は目尻を下げて聞いていた。宮本先生に限らず、当

時の先生方は生徒に自分の子供のように接し、また親とも緊密な信頼関係を築いていた。

■6.一緒に遊んでくれた小谷先生■

 3年生の時の担任は、小谷先生という男の先生で、楊さんの家の裏に住んでいた。楊さんは放課後、家に鞄を投げ出すと

小谷先生の家に遊びに行くのだった。先生はお話しをしてくれたり、習字を教えてくれたりした。

 台湾神社や開山神社のお祭りや夜市があると、先生は楊さんたちを連れて行ってくれた。浴衣に着替えた先生が迎えにく

ると、「わー」と先生の腕にぶる下がる。友達が「私も私も」と言うので、かわりばんこにぶる下がった。そして神社に行

っては、金魚すくいをしたり、お菓子を食べたりするのが、楽しくて仕方がなかった。

 授業では、楊さんは修身の時間が大好きだった。先生は偉人伝の本を読んでくれたり、紙芝居を見せてくれたりした。楠

木正成、二宮金次郎、宮本武蔵から、野口英世、東郷元帥、乃木大将、そしてエジソンやキューリー夫人、、、これらの人

物が艱難辛苦を乗り越えて、立派な人になった、という話に、楊さんは感動して、自分もそうなりたい、と思った。

 先生は「我が国には昔こういう偉い人がいた」という具合に教えてくれた。「日本には」とは言わなかった。だから楊さ

んも「我が国」と覚えてきた。

 毎朝の朝会では明治天皇の御製(御歌)などを朗詠するので、楊さんたちも自然に覚えた。その中にはこういう御歌があ

った。

新高(にいたか)の山のふもとの民草も茂りまさると聞くぞうれしき

新高とは台湾の代名詞である。明治天皇が日本人と同様に、台湾の民をご自分の民として思って、その繁栄を喜ばれている

事がよく分かった。

■7.自分の国の兵隊さんは、こんなに素晴らしい■

 台南には日本陸軍の第2歩兵連隊が駐留しており、年に何回かある記念日には閲兵式があった。その行進の歩調は、イチ

ニ、イチニとピッタリ揃っていて、沿道を埋め尽くした人々が、みな固唾を呑んで見とれていた。

 ある日演習があって、楊さんの家の前の木陰で休んでいた兵隊さんが立ち上がろうとした拍子に銃を落としてしまった。

上官がそれを見て、兵隊さんに鼻血が出るまでビンタを張った。ぶたれながらも兵隊さんは気を付けをしたまま、敬礼して

「ありがとうございました」と言うだけだった。その敬礼は崩れず、実に格好良かった。

その様子を息をこらして見ていた楊さんは、子供心にも軍の厳しさを感じ取った。兵隊さんでだらしのない人は一人も見た

ことがなかった。自分の国の兵隊さんは、こんなに素晴らしいのだと、楊さんたちは誇りにしていた。

■8.兵隊さんに肩車■

 昭和18年、楊さんが5年生の時には、台南市でも米軍の爆撃が激しくなり、一家で祖母のいる大社村という田舎に疎開

した。そこにも日本の若い兵隊さんたちがおり、日本語の話せる楊さん一家に、自然に遊びに来るようになった。

 楊さんの母親は兵隊さんたちを自分の子供のように可愛がって、おやつやご飯をたくさん作って、たらふく食べさせた。

満腹になって帰って行く兵隊さんたちには「明日もおいで」と声をかけた。

 兵隊さんたちは、お礼代わりに、水汲みを手伝ってくれたり、また支給品の三角巾や薬を使わずに持ってきてくれた。中

には自分が使っていた立派な万年筆を楊さんの父親にあげようとして断られると、「お願いですから使って下さい」と半ば

強引に置いていった兵隊さんもいた。

 兵隊さんたちはお互いの間では「おい、こら」などと言っているのに、楊さんに向かうと「喜美ちゃーん」とニコニコし

ていた。子供にはとても優しかったのだ。

 軍隊では時々映画を見せてくれるので、そういう時は「喜美ちゃーん、映画に行かんか」と誘ってくれる。楊さんは

「はーい」と言って元気に家を飛び出す。5年生で小さな楊さんは周りが皆兵隊さんばかりで画面が見えないので、いつも

肩車してもらうのだった。

■9.やってきた蒋介石の軍隊■

 楊さんの幸福な日々も、日本の敗戦とともに終わりを告げた。その最初のショックは、中国から蒋介石の軍が上陸した時

だった。シナ兵は裸足でボロボロの服を着て、天秤棒に鍋と七輪をぶら下げ、こうもり傘を担いでだらだらと歩いていた。

手で鼻をかんだり、痰を吐いている人もいて、まるで乞食の行列だった。こんな兵隊がやってきて、台湾はどうなるのか、

と心配になった。その心配は現実のものとなった。今まで戸締まりなどしなくても安心して寝ていたのに、家の自転車が盗

まれてしまった。

 終戦2年目の1947(昭和27)年2月28日には、蒋介石政府の横暴に怒った民衆が台湾全土で暴動を起こした。228事

件である。そのきっかけを作ったのは、中国人の密輸タバコ取締官が台湾人の女性の所持金を取りあげ、銃で殴っているの

を、日本海軍から戻ったばかりの若者が守ろうとしたことだった。

 この暴動を鎮圧するために、全土で3万人近くの台湾人が殺された。楊さんの父方の親戚の湯(とう)さんも、大衆の見

守る中で銃殺された。学生たちの命を守ろうと、学生連盟の名簿を役所から持ち出して燃やしたからである。湯さんの奥さ

んが夫の亡骸に毛布をかけてやろうとすると、中国兵はその手を払いのけて、銃剣で死体を突っついた。中学2年生の楊さ

んには、あまりにも衝撃的な光景だった。[b]

■10.あの平和で穏やかな時代に戻りたい■

蒋介石政権の戒厳令は40年間も続いた。そしてようやく「中華民国」から脱却して「台湾」への道を歩み始めたのは、

「私は二十二歳まで日本人だった」と語る前総統・李登輝の時代になってからである。[c]

 日本時代は、人民は政府を信頼していました。そして、それに応えるかのように政府も人民の生活を良くしてあげたいと

いう気持ちを表していました。また、兵隊さんも、先生方も、お巡りさんも良くしてくれ、町中至る所にいい雰囲気が溢れ

ていました。

 もしもタイムマシンで元に戻れるなら、もう一度日本時代に戻りたいです。あの平和で穏やかな時代に。

 台湾は別名をフォルモサともいう。16世紀にやってきたポルトガル人が、緑溢れるその美しさに感嘆して「フォルモサ

(麗しの島)」と呼んだのである。その麗しの島で、かつて台湾人と日本人が力を合わせて幸福な時代を築いた。それはま

た日本人の目指す理想の社会でもあったろう。

 日本時代とは私にとって、素晴らしい時代であり、私の人生の道標をこしらえてくれたと言っても過言ではありません。

私の向かうべき人生の指針を与えてくれました。私の心の中には、いつもとても綺麗な日の丸の旗が翩翻(へんぽん)とは

ためいています。[1,p272]

(文責:伊勢雅臣)

平成16年8月30日(月)

(天 気)雨後晴れ

オリンピック協想曲

今回のアテネオリンピックに関してあるラジオ局がアンケートを実施しました。今回のオリンピックに対するあなたの

の満足度は100点満点の内何点ですか。その答えは82.5%という高い評価でした。世界の中でも従来の列強を押

さえての金メダル16個、銀メダル9個、銅メダル12個、計37個のメダルを獲得したことに対する評価です。4年

後のオリンピック開催国の中国も目覚しい活躍をしたことにより、アジアンパワーが突出したオリンピックでした。

オリンピックの金メダル取得者に関しては、各国が破格の条件を与えています。何千万円+生涯年金+高級住宅等々を

与える。又は、アメリカでは常識であり、日本でも今回目立つ現象ですが、所属する企業が何千万円の報奨金を払うと

こともあります。いずれにしても、オリンピックの当初の精神からは遠く離れた現象だと思いますが、私の考えは時代

遅れなのでしょうか。ドーピングのような卑劣なことをしても金メダルにこだわる選手が多数存在する事実を直視すべ

きです。それにしても、このオリンピックを開催する為に、費やしたセキュリティーに対する莫大な費用は本来必要の

ないものだと言わざるを得ません。

・・・・・・・・・・

今回のアテネオリンピックにおける各競技の日本選手の態度は賞賛すべきものが多くありました。100m、200m

競泳に見事優勝した北島選手が、決戦に臨み、ジャージの胸に着けた日の丸を、強く握りしめていた映像は印象に残り

ました。北島選手のみならず、メダルを獲得した多くの選手が日本を象徴する日の丸に対してを尊敬の態度を示してく

れました。これは世界の中では当たり前の行為です。日本においては一部マスコミ等の誠に偏向した世論操作により、

日本の国旗である日の丸に対して軍国主義の復活のもとであるという誤ったイメージを植え付けています。このような

主張をしている新聞が戦時中はナチスドイツの少年合唱団の日本訪問を必要以上に礼賛しており、その無責任な体質を

我々読者は今こそ追及しなければならないと思います。

・・・・・・・・・・

又、メダル以外にも大きな感動を与えてくれたと思います。それは、「私一人だけで戦ったのではない、家族や多くの

周りの方々の応援が私を後押ししてくれました」という勝利の後のコメントを述べる選手が多くいたというよりは殆ど

の選手がそのような発言をしていました。選手達は極限の状態においてその応援を力として、競技に臨んでいたのだと

思います。我々も、ともすれば自分一人で生きている、現在の成功は自分の努力のお陰であると思いがちですが、忘れ

てはならないことだと反省させられました。

最近の不景気(大企業は別のようですが・・・)や中国、韓国、北朝鮮などから日本人に対するいわれの無い非難、中傷

又、それを煽り立てるような日本の一部マスコミの為に醸成されたモヤモヤとした大きな不満を一気に晴らすような活

躍をしてくれた選手の皆様に感謝します。本当に有難うございました。

・・・・・・・・・・

以下に、金メダルを獲得した室伏選手の感動の記事を載せておきます。・・・

2004年8月30日(月) 9時34分 室伏の証言がハンマー繰り上げ金呼んだ(日刊スポーツ) 男子ハンマー投げで金メダルに繰り上がり、記者会見する室伏(撮影・野上伸悟)  アテネ五輪陸上男子ハンマー投げで銀メダルを獲得した室伏広治(29=ミズノ)が金メダルに繰り上がった。国際オリンピック委員会(IOC)は29日、アテネで理事会を開き、同種目で優勝したアドリアン・アヌシュ(31=ハンガリー)について、再検査を拒否したことによるドーピング違反と断定し、同選手を失格として金メダルをはく奪した。これにより室伏の繰り上がりが決定。日本の金メダル数は過去最多の1964年東京大会の16個に並んだ。  金メダル繰り上がりが決まり、室伏はアテネ市内で会見に臨んだ。そして「皆さんに見てもらいたいものがある」と話し、自筆のメモを報道陣に配った。メダルの裏に書かれたギリシャの古代語の文章を周囲の協力を得て訳したという。「真実の母オリンピアよ。あなたの子供達が競技で勝利を勝ちえた時、永遠の栄誉(黄金)をあたえよ」。室伏は「金メダルより重要なものがある。本当の真実の中で試合が行われることが、どれだけ大切かと思って引用した」と力説した。  ドーピングは断固許せない室伏の信念を示した。それは今回の疑惑追及にも大きく働いた。IOCを再検査へ動かしたのは室伏自身の証言だった。「絶対におかしい。(アヌシュは)競技途中でトイレに行ったのに、競技後のドーピング検査は誰よりも先に尿が出て終わっていた」。選手村の沢木啓祐・陸上監督の部屋で、切実に訴えたという。  競技後の検査でアヌシュは陰性だった。IOCも1度は「不正はない」と発表した。しかし、室伏の証言を受けて日本オリンピック委員会(JOC)はあきらめず、徹底調査を訴えた。選手の証言を得たことでIOCの対応が一転した。調査の結果、アヌシュの尿検体が競技前の検査と競技後の検査では別人のものである決定的な証拠をつきとめ、理事会後に発表した。  この日、IOCは理事会に先立ち規律委員会を開いた。病気を理由に欠席したアヌシュに代わり、ハンガリー・オリンピック委員会(HOC)のシュミット会長から再検査を拒否した理由を聞いた。同会長は検査場所が警察署だったことを指摘して「犯罪者でもないのに」と主張した。しかし、IOCは検査拒否の正当な理由はないとして「拒否は失格」の規定に従い、金メダルはく奪を決めた。  22日のハンマー投げ決勝でアヌシュは3投目に83メートル19を投げた。室伏は最終6投目に82メートル91で、28センチ及ばなかった。アヌシュはその後のドーピング検査をパスしたが、翌23日の円盤投げで同じコーチの指導を受けるファゼカシュが尿検体の提出を拒んで金メダルをはく奪されたことで、IOCは追跡調査を開始した。27日に検査官をハンガリーまで派遣。再検査を要請したが、アヌシュは指定場所に現れなかった。疑惑が広がると「尊厳を傷つけられた」と引退を表明し、騒動に幕を下ろそうともした。  室伏の金メダルは陸上のトラック、フィールド種目では36年ベルリン大会の3段跳びの田島直人以来、実に68年ぶり。投てき種目ではアジア初。前回シドニー大会で9位と惨敗したが、2度目の五輪でついに世界の頂点に立った。「一番重要なのは努力し続けることだと思っている」と室伏。4年後は連覇を目指す立場となった。 [ 8月30日 9時34分 更新 ] 日本代表限定グッズを手に入れよう! アテネ日本代表選手応援アイテムをGet!

平成16年8月13日(金)

(天 気)晴れ

常軌を逸したジェンダーフリー思想について

男女の性差までも否定する過激な男女平等教育の背景になっているとして、東京都教育委員会は12日、「ジェンダー

フリー」という用語を教育現場から排除することを決めた。学校での「ジェンダーフリー思想に基づいた男女混合名簿」

の作成も、禁止する方針。月内にも各都立学校に通知し、二学期からの実施を目指す。このような決定は全国で初めて

で、今後、各方面に大きな影響を与えそうだ。・・・・・「ジェンダーフリー」は、その意味や定義がさまざまで、単純

な生物上の区別や「男らしさ」「女らしさ」といった観念まで否定する極端な解釈もされている状況。これに対し、都教委

は「意味や内容が使用する人によってさまざまで、誤解や混乱が生じている」として、「都教委が目指す男女平等教育と

は異なっており、今後は『ジェンダーフリー』という用語は使用しない」ことを決めた。通知によって、ジェンダーフ

リーの記述がある教科書を使う際には、社会の多様な考え方のひとつとして教育するよう配慮することになるという。

学校の行政文書などからも、言葉が消える。また、都内の学校では一部の教職員や市民グループらがジェンダーフリー

思想に基づき、「男子が先で女子が後は男女差別」などとして、男女を一緒にして五十音順に並べる「男女混合名簿」の導

入を推進している。男女混合名簿については、都は平成十四年、「全校での実施を推進する」などと定めたが、都教委は

「男女の性差を否定するような思想に基づき男女混合名簿を作成しようとする動きが見られる」として、作成を禁止する

方向で検討している。ジェンダーフリーをめぐっては全国各地で混乱があり、一部では「ひな祭りや端午の節句は男女

差別につながる」「服の色で男女を分けるのはおかしい」などの教育が行われているという。・・・・・・・・・・

これが、8月13日の産経新聞の一面に載った記事です。大変重要な記事だと思いますが、他の新聞には載せられてい

たのか分からない状況でした。私も以前からこのジェンダーフリー思想には大きな疑念を抱いておりましたので、

やっと正常な方向に進むようになったと安堵しました。しかし、これからの抵抗も一筋縄ではいかないのではないかと

いう懸念ももっております。男女はもともと異なる性をもつことは明白であり、その性差を否定して、最も理想的な生

物はカタツムリである、体育の授業の前の着替えは別々の部屋ですることはない、小学生の時から男女の性器の名を教

えることは大事なことである等々の過激な教育を進めているジェンダーフリー思想なるものが、どうして青少年の最も

大切な教育現場に持ち込まれてくるのか、おかしいと思わない方が常軌を逸している。

・・・・・・・・・・

同日の【産経抄】にも重要な記事が載っておりました。私は、産経新聞しか読んでいないのではありません。朝日新聞

も読んでおります。・・・・・

中国外務省が小泉首相の「靖国神社参拝は来年も続ける」という発言をとり上げ、鬼の首でもとったように「日本の指導

者は侵略を反省するといった約束を守れ」と言い立てている。これも先日書いた「天をぬすんで日に換える」式のすりかえ

だろう ▼サッカー・サポーターの暴動で、北京五輪をやる中国への不信感が内外に高まった。その不信の矢の方向を

すりかえる詐術みたいなもの。歴史の問題では「もう日本は中国に謝罪しなくていい」(馬立誠・元人民日報高級評論委

員)という声が、中国内にもあるほどなのだ ▼来年は敗戦六十周年だが、二日付本紙・石原慎太郎氏『日本よ』の

「陛下、お願いいたします」は大きな反響を呼んだ。「来年こそ、八月十五日に天皇陛下に靖国神社に参拝していただきた

いと熱望する」と石原氏は強く訴えたのだった ▼たとえば十二日の夕刊フジで亀井静香氏は「全く同感だ」と書いて

いる。「兵士は父母兄弟や故郷の山河に思いをはせながら散った。陛下のご参拝はそうした英霊を慰めるだけでなく、文

化的存在のご行為として、外国が政治的理由をもって批判することはできない」(大意) ▼石原、亀井両氏がいうように

靖国の思想とは英霊に感謝し、世界の平和を祈る心の具体的な表である。陛下がまず一人の日本人としてご参拝なされ

ば、日本人全体の意識や思考に大きな影響を与える。日本のメディアや外国の論評も沈静する ▼三年前の夏、大阪の

酒井順子さんという年配の読者からいただいた手紙は今も忘れない。「日本人が靖国参拝をしなくなった時こそ、戦争

の怖さを忘れて戦争を起こす日本人が多くなった時と理解すべきです」。これがごく普通の日本人の感覚なのだ。

・・・・・・・・・・

大切な記述だと思いますので、ここに書きとどめておこうと思いました。

平成16年8月8日(日)

(天 気)晴れ

テレビ番組「世界ウルルン滞在記」より

今日の夜10時より、6チャンネルで放映された「世界ウルルン滞在記」は大変感動的なものでした。日本とアメリカ

が大東亜戦争(太平洋戦争)で激戦を繰り広げたラバウル島のレポートでした。ある村の長老は一時10万人が駐留した

日本軍との共存時代を誠に心から良い思い出として評価していました。日本軍は彼らのイモ作りに対して、実に効率的

な方法を教えています。それを現在でも忠実に守っている様子が良く描かれていました。そして、何よりも日本人に教

えられたことは、一、約束を守ること。二、ウソをつかないこと。だと言っておりました。そして日本の歌も大変良く

憶えていました。例えば、うさぎとかめ、夕日、海ゆかば等々です。そして、彼が今までに一番悲しかったことは、そ

の日本軍が、ラバウルを去らなければならなかったことだと言っておりました。・・・・・・・・・・

この長老は日本人に逢うのは1946年以来だという事で、50〜60年前の出来事が余程印象的だったのでしょう。

サッカーのアジア大会決勝戦で中国人サポーターが日本人を最悪の鬼畜のように発言していますが、それは中国の意図

的な教育により、そう信じ込んでいるのです。そして、日本の若者はそれに対して反論できない、それは日本のマスコ

ミ等が、売国的な情報を流し続けていることや教科書に我々の先祖をいやしめる記述がまかり通っているからです。戦

争になれば、常に命の危険と隣り合わせになっていることもあり、イラクにおける米軍の例を挙げるまでもなく、一部

の人間の行き過ぎはどこの国でもあります。日本ばかりを非難する中国が戦時中に、便宜兵により、民間人に偽装して

戦うという、今回のサッカーのサポーターと同様に、世界の基本的なルールも無視しました。自国民にさえ略奪・暴行

の限りを尽しました。そして、天安門事件では、ドイツのヒトラー同様の殺戮を強行しました。このような国に、靖国

神社の本質が分かるはずがありません。それでも日本は中国との友好を願っているのです・・・・・・・・・・

このウルルン滞在記に起用された若者は、「僕は、今迄の日本に対する認識が変わりました」と発言しました。いつま

でも先の大戦に対する贖罪意識に囚われていることは、最大限に生きた我々日本人の先輩達をいやしめることになるこ

とを明確に自覚すべきだと思ったと同時に、その先輩達を最大限に誇りにしてゆくべきだとも思いました。

平成16年8月8日(日)

(天 気)晴れ

秋の気配

昨日が立秋でしたが、今年の夏はまさしく猛暑なので実感がわきません。朝、8時過ぎから自転車で白鬚橋から上流の

方をのんびり廻ってみました。白鬚橋から水神大橋あたりは岸辺や土手もきれいになっていますので、絶好の散歩コー

スになっています。川の流れの影響を受けにくい水場も造ってあります(湾処−ワンドと言うそうです)ので、そこにカ

ワウやユリカモメ、サギ、カモなどが集まっていました。又、水中にはボラやスズキ、クロベンケイガニ、テナガエビ

などが生息しているそうです。ごく最近、サヨリに似た魚が流れているのを見たことがあります。何かの間違いかもし

れませんが、隅田川にはマハゼなど、かなり多くの魚が生息するようになっています。水質が随分浄化していることが

明確になっているのです。その為にも川にゴミを捨てないでほしいのです。しばらくして、ツバメが何羽か飛んでいま

した。そして、秋の到来を告げるトンボが飛んでいるのを見つけました。いくら暑くても季節の移り変わりは正確なも

のがあると感じました。とても良い気分で都会の中の自然を楽しみました。良い一日でした・・・・・・・・・

平成16年8月1日(日)

(天 気)晴れ

隅田川花火大会

昨日は年に一度の隅田川花火大会がありました。家から近くですので、痛む足を引きずりながら家内と見物にゆきまし

た。野球場の入り口の近くが空いていましたので、そこに陣取りました。7時10分より始まりましたが、何れも技術

の粋を極めたものばかりで、二人とも堪能しました。若者の浴衣姿も情緒があり日本人の美しさを感じました。公表、

97万人という人手だったので警備する方々も大変なご苦労だったと思います。中盤以降に「花火コンクール」の出し物

もあり、大変盛り上がりました。主催者側は準備のために何日も前から公園の整備等に時間をかけました。川の防波堤

のコンクリートの上に登らないように、両岸の何キロメートルの間に柵を設置したり、公園の木々に登らないように周

りを柵で囲んだり、簡易トイレを設置したり、躓きそうなものは除去したり、川にゴミを捨てないようにネットを張り

巡らせたり、テラスのブルーテントの人たちを移動させたり、運動場に入場する人々のために見物席をつくり、また、

見物客に怪我のないようにその中に通路を作ったり等々、費用もかなりかかっていると思います。・・・・・

しかし、混乱もなく花火大会が終了した事はこの方々の努力の賜物だと感謝しております。誠に有難うございました。

・・・・・・・・・・

今朝9時半から1時間位、自転車で隅田川の辺を廻ってみました。台東区側の隅田公園はすでに区の清掃局の方々が作

業の殆どを終えていらしたようでした。しかし、吾妻橋を渡り川沿いのジョギングコースに出たあたりからは、昨日の

ゴミが多量に放置されていました。使用したブルーシートもそのままに捨てられていました。食べ物の容器が散乱し、

それは酷い状態でした。日本人の公徳心の無さを証明するものでした。全ての見物客がそのような人たちではないこと

は解っていますが、大変情けなくなりました。姿、格好には細心の努力をする人たちがこのようなことを平気で行なう

ことが許せない気持ちで一杯になりました。

・・・・・・・・・・

話は変わりますが、昨日のサッカーのアジア杯、対ヨルダン戦における重慶の観客のマナーの悪さは看過できないもの

と思っております。特に日本国歌斉唱の時にブーイングをしたり、起立しないなどは論外です。中国当局もこのような

風潮を利用していると思われます。偏向した歴史教育を植え付けられている民衆は正しい行動をしていると認識してい

ると思われます。首相の靖国神社参拝を非難する韓国、北朝鮮、中国を恐れて汲々としている政府、その風潮を煽る朝

日新聞をはじめとするマスコミが存在するからこそそれらの国々は堂々と日本を非難出来るのです。・・・・・日本人

観光客の集団買春騒動などもこの風潮を煽るものと言えましょう。しかし、何れにしても集団買春等は実に情けないも

のであり、これも隅田川の一部の人々(かなり多い)のマナーの悪さに共通するものだと思います。必死で戦っているサ

ッカー選手やサポーターを貶めている原因の一つになっていると考えるのもあながち、間違っているとは思いません。

平成16年7月12日(月)

(天 気)晴れ時々小雨

再び隅田川のゴミ投棄について・・・東京都からの回答

昨日の朝、自転車で隅田川を観てきました。あまりゴミが無かったのでほっとしましたが、念のため桜橋から白鬚橋の

間の状態も見てきました。潮の満ち干がありますので、その時間に応じてゴミの移動がある所為だと思いますが、非常

に多くのゴミ入りのポり袋やペットボトル等が浮かんでおりました。岸に沿ってずっと続いておりましたので、誠に悲

しくなりました。本日東京都建設局河川部の担当者に報告して、対処をお願いいたしました。すぐに返事をいただき、

桜橋から白鬚橋の間にも注意・警告の掲示をしていただけることになりました。誠に嬉しかったです。

平成16年7月9日(金)

(天 気)晴天

ソフトボール大会

午後7時より隅田公園の野球場でソフトボール大会がありました。我がテニスクラブとテニスでは上級の親しい他のク

ラブとの対戦でした。私は足を痛めておりましたので、終始審判を務めました。女性や小学生も加わって楽しく試合を

することができました。7回戦で、結果は9対9でした。もう少し時間がありましたが、仲良く引き分けということに

しました。終わってから、例のイタリアンレストランで打上げをしました。色々と話が弾んでとても楽しい一時を過ご

すことができました。私は小学生の頃は運動が苦手でしたが、例年は監督が先発投手にしてくれます。昔の夢が叶った

ようで、一年に一度のこの大会を楽しみにしております。来年は頑張りたいと思いました。ああ・・・面白かった!

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